武市半平太を語る上で欠かせないのが、坂本龍馬と岡田以蔵という対照的な二人の存在です。
坂本龍馬との思想的分岐と相互理解
武市半平太と坂本龍馬の関係は、遠い親戚筋にあたり、幼少期からの旧知の間柄でした。土佐勤王党結成時、龍馬はいち早く血判を押して加盟しています。しかし、二人の志は次第に決定的なズレを見せ始めます。
武市はどこまでも「土佐藩という枠組みの中で藩主を尊皇攘夷に導く」という誠忠の士でした。一方の龍馬は「藩の枠に囚われていては日本が危うい」と見抜き、文久2年3月に脱藩を選択します。武市は龍馬の脱藩を制止しようとしましたが、その器量を認めていたからこそ、完全な敵対関係には至りませんでした。後年、獄中の武市は龍馬の活躍を聞き、手紙の中でその才を称賛しています。
岡田以蔵への「毒殺説」は事実なのか?
一方、武市半平太と岡田以蔵の関係は、創作物において最もドラマチック、かつ冷酷に描かれる対象です。類まれな剣技を持つ以蔵を京都で暗殺要員(いわゆる「人斬り以蔵」)として重用しながらも、土佐へ連れ戻された以蔵が獄中の拷問に耐えかねて自白を始めた際、勤王党の同志たちが毒殺を試みたというエピソードが広く知られています。
しかし、歴史研究の現場において「武市による以蔵毒殺未遂」は後世の俗説・フィクションの脚色が強いと検証されています。確かに獄外の同志(武市の実弟ら)の間で「以蔵が口を割る前に毒薬を差し入れるべきか」という議論があったことは書状に残されていますが、武市自身がそれを命じた確証はありません。むしろ武市は、身分が低く粗暴と見なされていた以蔵を剣術修行に同行させるなど、初期においては目をかけていた記録も残っています。過酷な党派抗争が、師弟とも言える二人の絆を残酷に引き裂いたのが実態です。