会津若松城が日本屈指の堅城として語り継がれる最大の契機となったのが、1868年(慶応4年)の戊辰戦争(会津籠城戦)です。新政府軍(西軍)が城下を取り囲み、最新鋭のアームストロング砲やガトリング砲を用いて浴びせた砲弾は、1日約2500発、籠城期間全体で3000発以上に達したと記録されています。
天守は蜂の巣のように破壊され、白壁は崩落しながらも、城そのものは最後まで物理的に突破されることはありませんでした。城郭がこれほどの猛攻に耐え抜いた背景には、綿密に計算された3つの軍事土木構造が存在します。
第1に、城内に侵入しようとする敵の勢いを完全に削ぐ「桝形虎口(ますがたこぐち)」の徹底配置です。城門を二重に構え、侵入した敵兵に直角の方向転換を強いることで、四方から弓銃撃を集中させるキルゾーンを形成しました。
第2に、太鼓門の脇に現存する「武者走り(むしゃばしり)」です。城壁の内側に設けられたV字型の石段により、城兵が大挙して石垣の上へ迅速に昇降・配置転換できるよう設計されており、局所的な防衛突破を即座にリカバリーする機動力を担保していました。
第3に、会津盆地の扇状地地形を巧みに利用した高低差と、幅の広い水堀・深さのある空堀の複合配置です。会津藩祖・保科正之以来、代々の藩主が改修を重ねた防御網は、歩兵の突撃戦術を完全に無力化する完成度を誇っていました。