周囲の反対を押し切り、七保子は「ラトナ・サリ・デヴィ」としてジャカルタへと旅立った。大統領夫人としての生活は絢爛豪華そのものだったが、日本の家族への仕送りを絶やさず、母と弟の生活を支えることが彼女の最大の目的でもあった。
しかし、悲劇はあまりにも早く訪れる。渡印からわずか約2年後の1962年、東京の母・政子さんが急逝したのだ。心臓の病だった。最愛の娘が遠く離れた地で暮らす心労と、急激な環境の変化によるストレスが、彼女の身体を蝕んでいたことは想像に難くない。デヴィ夫人は帰国すらままならない状況の中で、母の死を知らされることになる。