大田南畝という人物を語る際、多くの人が抱く最大の疑問は「稀代のクリエイターでありながら、なぜ幕府の重職を歴任できたのか」という点にあります。南畝は寛延2年(1749年)、江戸牛込中御徒町(現在の東京都新宿区)の貧しい御家人・大田東作の嫡男として生を受けました。幼名を直次郎、本名を覃(ふかし)といい、下級武士の家柄でありながら幼少期から並外れた神童ぶりを発揮していました。
10代で漢詩や儒学を修めた南畝は、わずか19歳にして漢文のパロディ文集『寝惚先生文集』を出版。これに目を留めたのが、当時の江戸を代表する奇才・平賀源内でした。源内がその才能を絶賛したことで南畝の名は一躍文壇に轟き、以降、狂歌師「四方赤良(よものあから)」の名義義で江戸のサブカルチャーを牽引していくことになります。
当時の田沼意次政権下における自由闊達な空気の中、南畝は唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)や朱楽菅江(あけらかんこう)とともに「天明狂歌の三大家」と称され、江戸の町人から旗本・御家人、大名に至るまで熱狂的なファンを獲得しました。しかし、彼の本質は単なる風流人にとどまりません。昼間は江戸幕府の支配勘定として緻密な帳簿管理や財政計算を寸分の狂いもなくこなす、極めて優秀な行政官僚でもあったのです。